年越し時差プリントの勧めと、自分の写真には『色』があるのか問題について。

こんにちは。CuiCuiフォトグラファーの沼山かおりです*

この夏に、ずっと習いたいと思っていた「文章を書く」為の講座に通い、

先週全5回の講義が終了しました。

目的としては、このブログがより皆様に伝わりやすいものになればという事だったのですが、

本来「書く」事は大好きで、学生時代からずっと「思った事を書く」という事はし続けていました。

ですが、子供が生まれてからは、プライベートで「書く」という時間はなかなか持てなくなりました。

また、人の親になった事による自分自身の変化、つまりただただ子供が可愛い毎日に、

ペンを握ってみても、「息子可愛い。ちゃわいい。ちゃわちゃわ♡私が背を向けて寝ると寂しがってグイッと引っ張ってくる♡」など、

もうバカみたいな文章しか出てこなくなり、書く事から遠ざかっていました。

 

このブログの更新は割とマメにしていますし、

写真をみてもらう為のものにしては文章量が多いとは思います。

ですが講座に通い、もう一度書く事をちゃんとしてみたいと思った事もあり、

自分が書きたい事を自由に書くコーナー(?)も設けてみようかと思います。

このブログには「カテゴリー一覧」なるものがございますが、

その中の『コラム』というカテゴリーで書いて行きたいと思います。

そしてさらに、書く力を鍛えていって、ゆくゆくは

取材に行って写真を撮る、かつ、書くという仕事をしてみたいな、なんて思います。

(お仕事お待ちしています。人件費も削減出来ますし。)

さて、このフィルム写真ですが、夫が撮ったものです。(夫もカメラマンです。)

0歳の時の息子。

で、この写真が現像されたのが最近なので撮影日から3年程経っております。

夫は仕事以外で、なかなかの量の写真をフィルムで撮ります。(多分本人的にはまだまだの量なのだと思いますが。)

撮るには撮るけど、現像のタイミングを逃し、家には大量の未現像フィルム。

ですが、最近やっと一部を現像に出すとの事で、300枚のプリントを持って帰ってきたのですが、その中に26枚だけ私と息子の写真がありました。

え、300分の26?とお思いの方もいらっしゃると思いますが、はい、そうです。

 

で、枚数はまあいいのですが、とにかくもこのフィルム写真の玉手箱感?

違うな、タイムカプセル感ですかね、

が、すご〜くいいなと思ったのです。

フィルム写真の「時差」感って本当に良くて、

今息子は3歳ですが、もう一度0歳の頃の新しい息子に会えたという感じ。

また、この写真は夫の目線なので、私が知らない、もしくは見ていなかった息子にもう一度出会えた感じで、大層徳をした気分になります。

そこでこんなのはどうかなと思ったのです。

皆さま、「写ルンです」を買ってですね、旦那さまに「これでテキトーに気が向いた時でいいから子供を撮って」と渡します。

マメじゃない旦那さまの方がいいと思います。1本の「写ルンです」を消費するのに3年もかかる様なタイプの方がいい。あと別に写真が上手い必要は全くない。

そして使いきった頃、0歳だった息子も今や3歳という頃に現像に出すわけです。

その時の「現像を待つ時間」と「フィルム写真を見る時間」のワクワク感とか高揚感ってすごいです。味わって欲しいと思います。

そして、「私が見てなかったかもしれない新しい過去の我が子の姿との出会い」をしてみて欲しいです。

要は、自分が撮った子供の写真はもう知っているし、

自分が見てきた子供の姿は全てだし、

それ以上なんてないだろうと思っていたところに、

時間差で「まだあった!!」という感じを味わえる、という事です。

よければ、「遊び」だと思ってやってみて下さい。

 

あともう一つ、今日書きたい事。

自分の写真には『色』があるのか問題についてです。

 

昨日の話ですが、家族写真を出張撮影するカメラマン仲間4人でディナーをしました。

皆子供がいるのですが、「今回は絶対子なしで、何としてでも夫に預ける、そして夜に集まる、お酒を、お酒を飲む」という意気込みで調整して集まりました。

私たちの素晴らしいところは、誰からも夫の愚痴なんかの話題が出てこないところにもありますが、

ほとんどが仕事の話になる、というところです。

 

皆同業なのでライバルではあるのですが、

私たちは割とそれぞれが独立しつつも横の繋がりを大切に、皆認め合っているという雰囲気です。

それは、同じ写真を撮るのでも、カメラマンの『色』(そのままの意味の色でもあり、構図や感性の違いのイロでもある、カメラマンのキャラって意味もある)がそれぞれ違っており、

お客様が好みのカメラマンを選び、

私たちは選んでくれたお客様を大切に、ただ一生懸命撮るだけだと、

その様に思っているので、

他を蹴落とす事に何の意味もなく、努力すべきは自分のみであるから認め合えるのだと思います。

 

そんなこんなで、『色』というか、まあ個性とも言えると思いますが、

それはカメラマンにとっては大事なものであります。

だからこそ昨日の会でも、

「私の写真に果たして『色』なるものはあるのだろうか、どこかの誰かでも撮れる写真なのではないか、確立していないのでは」という葛藤の話になりました。

 

そこで、「本当そうだよね!分かる!」とならなかった自分。

それはあたかも、「そうかそうか、君たちはそうかも知れないけど私は確立してるんでノープロブレム。」

といった様な態度とも取れそうで、どうなんだろうかと思ったものの、

その事に関してもっとよく考えてみたくなりました。

 

ひとつ思うのは、「商品」としての価値といういう意味で『色』の好みを選別するのはお客様であり、少なからずでもプロとして売れている場合はその時点で色がない人はいないのではないかという事です。

ただ、私たちが葛藤する『色』は自分自身の中の問題なのだと思うのです。

だから周りが「あなたの色はちゃんとありますよ」と言っても、

自分で自分の思うひとまずの『色』までは、自分でたどり着けたと思えないといけないものなのだろうなと。

ただ自分の中の『色』なんて不安定極まりないから、

その前に、どんなお客様でも状況でも安定したクオリティの写真を提供できる

という事の方が大切なのではないかなと思うのです。

『色』、つまり個性がなければ、お客様からは選ばれにくいので重要な事には変わりないのですが、最重要ではないのではと。(ニューボーンフォトだとまた違うとも思いますが。)

もし自分の中で何か確立していない感があるとして、

それを個性がないみたいな問題にすると、けっこうつらいのではないでしょうか。

ただ、まだクオリティが不安定なのであれば、それは場数を踏めば絶対解決します。

安定してくる頃には『色』は嫌でもついてきてしまうし、むしろ今度はそこに自分の限界を感じて突き破りたくなって、人の『色』が気になる。

 

お客様に「沼山さんに撮ってもらいたい」「沼山さんの写真が好きです」と言ってもらえるのは本当に嬉しいし、

それがなくなってしまったら生きていけないのですが、

誰が見ても沼山かおりの写真と分かるものを提供したい、みたいな感じはあまりないのかもです。

他から言ってもらえる事はとても大事ですが。

 

何だかもっと掘り下げてみたくなる問題ですが、ひとまずこの辺でお終いにします。

 

しかし、昨夜は本当に楽しかったです。

子なしでちょっとお高め6,000円のタイ料理のコースとお酒in新丸ビル、贅沢な時間でした。

みんな楽しい時間をありがとう!時間がまだまだ足りなかったしまた行きましょう〜*